大河内メンタルクリニック院長ブログ 折り折りのこと

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zoom RSS       院内講義(抜粋)9

<<   作成日時 : 2016/10/12 20:15   >>

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死の問題は、我われ人間の最大の課題であるはずです。
前の章で、我われ人間には知らないものが無限にある、といった意味のことを述べましたが、その最たるものが死の問題です。
再びソクラテスを援用すると、彼の人は次のような意味のことを語っています。
人は死をひどく恐れているが、死についてあたかも知っているかのように思いこんでいる。しかし、死について何一つ知らないのが実際ではないだろうか。何も知らないことを私は知っているので、むやみに死を恐れるつもりはない・・・。
自死を意識しているある患者さんがいいます。
「こんなに辛い思いをして生きていかなければならない理由は何なんですか? だって、どうせ死ぬんでしょ?」と。
死が生にとって、単に絶望をもたらすだけのものであれば、この患者さんがいうのは、まったく正しいというべきです。
しかし、まさか、私の立場で「その通り」などといえるわけがありません。そういうことはいわないまでも、内心でそう思っているのであれば、どんないい方をしたとしても、それはごまかしの域を越えられません。説得力を持ちません。
私は「正解」を持っている必要があるのです。
正解というのは、先の患者さんに対して説得力を持つ死の見解を持つこと、そのことに確信を持っていること、になるのではないでしょうか。
「命がかかっている」患者さんには、精神科医たるもの、ごまかしや、その場しのぎは許されません。
その「命がかかっている」という意味は、直接的に自死の問題にとどまりません。うつ病をはじめとして、こころのさまざまな「病態」には、死の問題が絡みこんでいると、私は前は前々から感じております。
死について、我われ一般には、恐怖の極にあるもの、どうしてみても避け得なく、扱い得ないもの、といった思いがあるかと思われます。
従って、死について、我われ一般は、敢えて問わないという受け身の姿勢でいるのではないでしょうか。
それを敢えてここで取り上げるのは、死が単に恐怖のるつぼであるわけはない、という思いがあるからです。死によって人の生が滅亡するだけのことであれば、単純な思いとして「人生は無意味」です。
現実に我われは、一般的に死は絶望という無意識的な意識をどことなく持っていながら、しかし、一方では生きる希望をも持っています。
それも、死をどこかで恐れながらも、強がりではない自然なこころで生きる希望を持っているといってよいのだろうと思われます。
それは、一見すると矛盾です。
そこで「絶望をもたらす死が避けがたくあるにもかかわらず、人は生きる希望を持てているのは何故だろうか?」という問いが意味を持ちます。
それは、精神医療の上での最重要、最難問であると同時に、人間一般の最大の問題でもあるに違いありません。('16/10/12)


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