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大河内メンタルクリニック院長ブログ 折り折りのこと
ブログ紹介
精神に起因するもろもろの病いは、その人の人生が強いられた山登りになっているからと、比喩的に要約できるように思います。
この比喩でいえば、人生という山は無限性の性格を持っています。
山登りを、強いられてする人はいないと思います。それは楽しみ、喜びがなく、苦痛なばかりで、虚しい試みだからです。
人生という山登りは、してもしなくても自由というわけにはいきません。
それはしなければならないものですが、自分の意志に基づかせるのでなければ、耐え難いものになるに違いありません。
そういうことを念頭に、「山岳ガイドの弁」というサブタイトルの下に、ひごろの思いを述べてみたいと思っています。

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タイトル 日 時
クェスチョンタイム 2-3
 A:前回述べたイメージの問題だが、モノとは違ってイメージであるが故に変容する。 Q:・・・ A:ということは、誰であれ好ましい自己に向けて変容可能であることを意味している。  こころの治療は「治ること」ではなく、「自己の成長」が目論まれるということである。  それは言葉をかえると、いい意味で自己の変容が起こっていくということ、そういうことが目指されること、そうしたふうに治療的プロセスが進行していくことになる。 Q:もう少し具体的にいってほしい。 A:Pという患者さんがいるとしよう。... ...続きを見る

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2017/12/01 20:55
クェスチョンタイム 2-2
Q:私が存在するためにはキミの存在が前提だというのは、どうしたって解せない話だ。 キミがいないところで、ぼくが誰かと会うことができないとでもいいたいのか? A:・・・ Q:それはそれとして、何でこんなややこしい話になったんだっけ。 A:キミが、客観的な判断でなければおかしいなんていい始めたからだよ。 Q:それはおかしな疑問だとは思わないけどね。 A:それに応えているところでもある。 Q:・・・ A:そもそも、こころの問題を客観的に分かりやすくというのが厄介な注文なんだ。 Q:・... ...続きを見る

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2017/12/01 20:54
クェスチョンタイム 2-1
Q:すると、どうなるの? A:原点に戻るということ。 Q:???・・・ A:問われているのは「(患者である)あなた自身」です。 つまり「あなた」と切り離された「病気」、一般化された「病気」があるわけではない。 Q:私が病気だとすると、あれこれの症状を訴える。医師はそれらに基づいて何らかの  判断をするんでしょう? その判断は客観的なものでなければおかしいと思うけど。  A:訴えられる症状を訊いたり、表情、立ち居振る舞いなどを観察したりすることで、医者である私の内界からイメージの生起... ...続きを見る

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2017/12/01 20:51
翳り 6−1-B
人間は社会的存在であるかぎりは、明視の世界である意識の表層が活動の舞台である。 その世界の主宰者は自我のウサギ性である。 意識の表層である「明るい世界」で、ウサギは対人関係をこなすのが最大の仕事である。 自我はウサギ性とカメ性とを併せ持っている。 そのどちらか一方だけを持っているというものではないということは、誰についてもいえることである。 ウサギもカメもそれらの基盤は生まれ持ったものである。 とりわけカメは、生まれ持った本性に従う。 しかしウサギは人為の知恵も持っている。 人為... ...続きを見る

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2017/11/23 21:00
 翳り 6−1-A
イソップ物語のウサギとカメの寓話は、人間の性格の外向型と内向型に置き換えることが可能である。 そのように提案するのは、そうすることでイメージがしやすくなるのではないか、自己 理解に寄与するものがあるのではないかということである。 この物語のウサギのイメージから伝わってくるものは、人目をひく活躍をすることと強者であることの奢りである。 成功するウサギは世間知に長けている。 目上のウサギに礼儀正しく、目上のウサギに認めてもらうためには労を厭わない。 そして、それだけの能力を持っている。 ... ...続きを見る

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2017/11/23 20:58
翳り 6−2
「死にたい」という気持ちは、「生きていたい」というこころと対になっている。 生と死、男と女、裏と表、悪と善、自己と他者、影と光などなど「二項対立」は自我に拠る社会的存在である人間の特徴である。 比喩的ないい方をすれば、人間の精神世界は「自我に拠って人間が自然界から独立して、植民地として認められた」といった構図である。 認めたのは誰かといえば、いま述べたいい方に倣えば「大自然」であるということになる。 その「大自然」は自我に拠る世界ではないので「名づけ得ない世界」である。 「名づけ得る世... ...続きを見る

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2017/11/16 19:26
翳り 8
凡庸なウサギ族は、優れたウサギに取り入ろうとする。 彼らは内面を生きる能力が低いので、似た者同士で肩を組み合おうとする。 それがウサギ族のひとつの特徴である。 彼らは社会的にどうであるか、ということにしか思いが及ばない。 しかし現実には社会的な生きざまは、いずれ終焉に至るのである。 その観点からすれば、カメ族は「社会的囲い」の彼方へも目配りをする能力を持っている。 それは能力が高いカメ族は創造的な生き方をする能力を持っているという意味である。 言葉を換えれば、それは自我が他者との依... ...続きを見る

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2017/11/02 18:58
クェスチョンタイム 4
Q:医者はどういう立場になるわけ? A:医者はあり得る問題の一般論は原則的に知っている。それで、それを下にし て患者さんから可能なかぎり情報をもらわなければならない。 Q:患者が自分でできないのは、記憶力とかの問題ではないよね。 A:それが困難なのは、自我と無意識の関係にいきつくでしょう。 Q:・・・ A:両者の力関係は、圧倒的にという以上に比較を絶しているということでもある。 Q:・・・。 A:だから自我は、しばしば恐れをなす。その度が過ぎると自我がフリーズして 機能不全化するこ... ...続きを見る

驚いた ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

2017/10/26 19:04
クェスチョンタイム 3
Q:そうすると、どうなるわけ? A:あなたの問題です、ということになる。 Q:???・・・ A:胃というモノが問題であれば、つまり「私」という固有の存在の構成要員と しての胃は、「私」という個的なものから切り離すと「一般名詞としての胃」になる。 そういう性格の胃であれば「私が治してあげる」と医者はいえる。 しかし、こころに関しては「あなたという存在者」そのものが問題になる。  というとことになると「医者が治す」というレベルの話ではない。 Q:患者としてはどうしたらいいのかな。自分で... ...続きを見る

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2017/10/26 19:03
クェスチョンタイム 2
Q:すると、どうなるのか? A:原点に戻るということ。 Q:???・・・ A:病むのは、取りあえずは「私」である誰かでしょ? Q:胃が痛いのも? A:それを訴えるのは、誰かである「私」になる。 Q:・・・ A:胃痛を訴えているのだから、焦点が胃になるのは間違いない。 それで検査をすすめる。 Q:・・・ A:結果として胃にはなにも問題がないということも珍しくはない。 Q:???・・・ A:原点に戻るというのは、病んでいる誰かである「私」そのものが対象になるということ。’... ...続きを見る

ガッツ(がんばれ!) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

2017/10/26 19:01
クェスチョンタイム 1
Q-1:こころの病気は治るか? A-1:こころの病気は治る、治らないという問題では、そもそもない。 Q-2:というと? A- 2:こころの病気についての診断は国際的に混乱している。暫定的にWHOが主導して「国際疾病分類=ICD10」というものが定められている。 Q-3:その何が問題なのか? A-3:ICD10には以下の断り書きが添えられている。 「いかなる分類もいまだ完璧なものではない。われわれの知識が進み、また分類の経験が蓄積されるに従って、さらなる改定や・・・」と暫定的なもので... ...続きを見る

かわいい ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

2017/10/26 19:00
  翳り 7
K氏という有名人がいる。 K氏はある人道的な分野で活躍して超高齢で亡くなった。 世間では聖人のように扱われているK氏は、「成功したウサギ」の典型であるように私には思われる。 それは多分に世俗的な話になる。ならざるを得ないのである。 といういい方をすれば、人によってはK氏への誹謗、中傷の類いと取るかもしれない。 無論、そんな馬鹿げたことに時間を割いているのではなく、K氏が私がいう「ウサギ族」の見本のように見えているということにとどまる。 「成功するウサギ」である条件は、他人に伍して勝ち... ...続きを見る

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2017/10/22 18:43
     翳り 6
イソップ物語のウサギとカメの寓話は、人間の性格の外向型と内向型に置き換えることが可能である。 ただし、それぞれがウサギ型かカメ型かというのでなく、どちらに優位性があるかという問題である。 社会生活にはウサギ性が重要である。 ウサギ性は人と人との関係をつくるのを得手としている。 カメ性は自己の内面を生きるのを得手としている。 ある20代後半の女性、Aさんにこの話をしたことがある。 Aさんは母親との関係をめぐって、こころを悩まされてきた。 いつかは母親が母親らしい優しさを示してくれると... ...続きを見る

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2017/10/22 18:41
    翳り 5
人に愛されたい願いを持たない者はないだろう。 とりわけ幼いこころはそうである。 その願いが叶えられない度合いが強ければ、人はこころを病むことにもなる。 幼くして親に「見捨てられた子」は、人に興味を持たず、無感動のヨロイを身にまとうことにもなる。 それは愛を願うひそかな願いが叶えられる見込みを持てないからである。 過激なほどに傷つきやすくなっているこころを護るためである。 それらの子たちを覆う影は、激しい怒りをかかえ持っている。 滅多なことでは人を近づけないほどの怒りを持つことも珍し... ...続きを見る

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2017/10/22 18:40
     翳り 4
人気者や権力を持つ者に取り入ろうとするのは人のサガである。 それを「寄らば大樹の陰」という。 我われ人間は人との依存関係を、生きる寄る辺としている。 人は他者との良好な関係を保つことで安心を得る。 それがなければ孤立の地獄を味わう。 他人は他人であるが故に「私」の望むようには動いてくれる保証はない。 だから、この依存関係の問題は多かれ少なかれ人との争いにつながることになる。 母と子の関係は人間関係のパターンを造る。 その関係は濃すぎても、薄くても何らかの禍根を残す。 きょうだい... ...続きを見る

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2017/10/22 18:38
    翳り 3
自我と無意識との関係は、西遊記に描かれている。 悟空と観世音菩薩の関係がそれにあたる。 悟空は世界の覇権を取ったと思いなして、天界にまで殴り込みをかける。 その分をわきまえない所業は菩薩によって厳しく罰せられる。 この物語に従えば、悟空が自我である。 そして菩薩が無意識界に鎮座するこころの「真の主体」である。 現実にこころを主宰する自我は、「主体」の従者に過ぎない。 現代文明を築き上げたのは自然科学である。 それを主導したのは「主体」の従者である自我である。 自然科学は現代文明... ...続きを見る

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2017/10/22 18:37
      翳り 2
こころの翳りは人を魅了する力を持つ。 魂性がそこに垣間見えているからである。 内面を生きる能力には魂性をもたらす能力があるからである。 魂性とは自我が無意識と深くかかわることによって得られる内心の造形である。 内面よりもこころの外界と関わるのを得手としている人には、翳りのない明るさがある。 こころの内面を生きる能力が低いぶん、外面を飾ることになる。 これらのことからも、「明るい性格」に価値をもとめるのはせっかちというものである。 自分の本性、自然の力に従うのが本筋であるのは、わざわ... ...続きを見る

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2017/10/22 18:35
翳り 1
明るい性格はひとに好かれる。 多くのものが、明るい性格にあやかりたいと願う。 そのことを、あなたはどう思うだろうか。 その何が問題なのかといえば、一つには「暗い性格」が「明るい性格」にあこがれると立つ瀬がなくなるだろうということである。 暗い性格は内向型で、明るい性格は外向型である、ということになるだろう。 人為の知恵は明るさと便利さとを追い求める。 自然の叡智は計り知れない奥深さと共にある。 そこには明るさもなく、便利もなく、永遠を湛えた闇だけがある。 人為の知恵を支えている... ...続きを見る

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2017/10/22 18:34
  精神医療の問題 U
自然科学は無意識の世界を切り離して成り立っていると前回述べた。一見すると科学はこころの外的世界に関わるものであるように見えるので、こころの内界である無意識世界がなぜ問題になるのかという疑問を持つかもしれない。 以下はその問題の説明である。 結論を先にいえば、「私という自己の存在」はイメージとして存在しているということである。 「あなた」と「わたし」が友人としておしゃべりをしているときに、「あなた」から見れば「わたし」は厳然として「あなた」の前に存在している。その厳然としてという意味は、目で... ...続きを見る

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2017/07/27 19:15
     過食の問題 4
いかなる場合Hでも、我われ人間は「生きるか死ぬか」という無意識下での綱引きをしています。 心的エネルギーが、生の方向と死の方向と、たがいに対抗する二筋の流れ方をしていると考えられるのです。こころの問題には必ず心的エネルギーが関与しているということでもあります。 我々が生まれ、かつ死ぬという人為を越えた宿命の下にあるかぎりは、それを裏づける生理的な根拠があるということです。 それは生きることも死ぬことも自然の摂理の下にあるということにも通じます。拒食症の方々が自然の摂理の下にあるのはいうまで... ...続きを見る

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2017/07/20 21:30

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