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大河内メンタルクリニック院長ブログ 折り折りのこと
ブログ紹介
精神に起因するもろもろの病いは、その人の人生が強いられた山登りになっているからと、比喩的に要約できるように思います。
この比喩でいえば、人生という山は無限性の性格を持っています。
山登りを、強いられてする人はいないと思います。それは楽しみ、喜びがなく、苦痛なばかりで、虚しい試みだからです。
人生という山登りは、してもしなくても自由というわけにはいきません。
それはしなければならないものですが、自分の意志に基づかせるのでなければ、耐え難いものになるに違いありません。
そういうことを念頭に、「山岳ガイドの弁」というサブタイトルの下に、ひごろの思いを述べてみたいと思っています。

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タイトル 日 時
翳り Z-4
繰り返しになるが、ウサギ性とカメ性は自我の属性であるので、各人によってどちらか一方といったものではない。 誰もがウサギ性とカメ性とを併せ持っている。個々の人にとって、どちらが優位にあるのかという問題である。 ウサギは社会生活を営む上での先兵であり、カメ性はウサギの仕事を補佐する意味を持っている。 だから、両者が手を携えて日々の生活を営むのが望ましい。 ウサギは人との関係をつかさどり、社会生活を営むので、人との関係でつまづくことも多い。 ウサギは格好よく生きるのが本分であるから、何かにつ... ...続きを見る

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2017/10/14 20:48
翳り Z-3
イソップ物語の「ウサギとカメ」を援用して、ここでは人間の性格の「外向型」と「内向型」のイメージ的表現として扱うことにする。 外向型であるウサギは光を求める。 それは、自我がこころの外界である意識の表層にあるものとの関係を構築するという意味である。 見方を変えると、時間と空間とで囲われる世界の構築に参画するという意味である。 内向型であるカメは影を志向する。 それは、自我がこころの内界にあるものとの関係を持とうとする、といった意味である。 そして、また、無時間、無空間を生きるという意味... ...続きを見る

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2017/10/14 20:28
翳り Z-2
内向型はこころの内面を生きる能力である。 自我がこころの内界に向かう自然の傾向は、無意識という途方もないものと 関わろうとすることである。 自我が永遠の闇である無意識との関係を持つことの最大の意味は魂性にある。 魂性というのは、人間が生きる意味の在り処である。 それは自我が無意識の真髄と接触したときに姿を垣間見せる。 それを実践しているのは芸術家や思想家、天分のある科学者などである。それらの人たちは、それぞれの自我の特性に応じて、自分のこころの魂性を表現しようとしているのである。 ... ...続きを見る

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2017/10/13 21:18
翳り Z−1
明るい性格はひとに好かれる。 多くのものが、明るい性格にあやかりたいと願う。 そのことを、あなたはどう思うだろうか。 その何が問題なのかといえば、一つには「暗い性格」が「明るい性格」にあこがれると立つ瀬がなくなるだろうということである。 暗い性格は内向型で、明るい性格は外向型である、ということになるだろう。 人為の知恵は明るさと便利さとを追い求める。 自然の叡智は計り知れない奥深さと共にある。 そこには明るさもなく、便利もなく、永遠を湛えた闇だけがある。 人為の知恵を支えている... ...続きを見る

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2017/10/09 20:31
翳り 1−4
Aさんは、もっともなこととはいえ(母性を欠いた)母親にこだわりつづけてきた。 幼い子にとって、母親との関係は自己を護る生命線である。 しかしながら、護ってくれる意志を見せない母親は自己形成の妨げになるばかりであった。 幼いAさんは「見捨てられる恐怖」におびえつつ、母親が望ましく変容するのを待ち続けていた。しかし、いつかな望むような変容は訪れないまま、今日におよんでいる。 それにつれて、しだいに、慈母から程遠いままの母親への怒りを募らせてきた。 その怒りは恐怖と共にあり、Aさんのこころの... ...続きを見る

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2017/10/05 21:12
    翳り  3
Kという有名人がいる。K氏はある人道的な分野で活躍して、超高齢で亡くなった。世間では聖人のように扱われている。 結論的にいえば、K氏は「成功したウサギ」の典型であるように私には思われる。 外向型であるウサギ族は対人関係を生きることに長けている。それは、多分に世俗的な話になる。ならざるを得ないのである。 つまり、他人に伍して勝ち抜かなければ「成功したウサギ」にはなれないのである。 ウサギは格好よく生きるかどうかが勝負どころである。ひと目は大いに気になるのである。 カメ型人間は「自然のプロ... ...続きを見る

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2017/10/05 20:25
翳り  2
イソップ物語のウサギとカメの寓話は、人間の性格の外向型と内向型に置き換えることが可能である。 ある20代後半の女性、Aさんにはこの話をして、Aさんはカメ型であるという共通認識を持っていた。 Aさんは母親との関係をめぐって、こころを悩まされてきた。いつかは母親が母親らしい優しさを示してくれるときが来るだろうと信じることに努めてきた。 しかし、その願いは常にほとんど裏切られてきた。 そのあおりで、社会人としてはずいぶん遅れを取ってしまったのである。 具体的な経過はプライバシイに関わることで... ...続きを見る

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2017/10/05 20:22
翳り 3
自我が無意識に挑むには怒りと恐怖に対峙しなければならない。 怒りは無意識界の守護者である。 自我が怒りに恐れをなせば、こころの成長はない。 自我が怒りの支配を受けることになれば、悪に傾く。 それにもかかわらず、自我が恐怖に耐えて怒りに挑む意味は、無意識界は宝庫だからである。’17.10.3. ...続きを見る

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2017/10/03 20:40
翳り 8
自我と無意識との関係は、西遊記の悟空と観世音菩薩の関係に描かれている。 悟空は世界の覇権を取ったと思いなして、天界にまで殴り込みをかける。 その分をわきまえない所業は菩薩によって厳しく罰せられる。 この物語に従えば、悟空が自我である。そして菩薩が無意識界の主体である。 現代文明を築き上げたのは自然科学である。 自然科学は現代文明の思想でもある。 いうならば悟空が現代文明の担い手である。 その自然科学は自我の世界での方法論なので、暗さ、あいまいさなどを明るみの下にさらけ出すことができ... ...続きを見る

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2017/10/01 21:12
翳り  7
自我と呼ばれているものは、「自己」の主宰者である。 自我の最も重要な役目は「引き受ける精神」である。 何をかといえば、人間としての自己を、である。 何からかといえば、大宇宙である無意識からである。 そういう機能を持つ自我は、人間の象徴である。 無際限に広がる無意識が自我に拠る自己の大いなる母である。 自我との関係を結ぶことによって、無意識は大自然そのものから乖離する様相を持っている。 しかし、無限性という我々の理解を超越している一点において、大自然、大宇宙との区別はない。 '17.... ...続きを見る

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2017/10/01 21:11
クェスチョンタイム 3
Q-1:「自分に訊く」って,どういうことですか? A-1:何であれ意味がある行為をするのは、自我の仕事です。   その自我が、分からないことを人に訊くのは誰もがしていることです。  しかし、何を訊きたいのか分からない問題もあるわけです。 Q-2:・・・・・。 A-2:幼い子はなんでも母親に訊きます。 Q-3:ふん、確かに。 A-3:「お母さん、なんでぼくを生んだの?」と訊いたとします。 この質問は、母親の愛情に納得しかねる意味があるかもしれません。 Q-4:? ? ? A-4... ...続きを見る

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2017/09/29 19:27
クェスチョンタイム 2
Q-1:自分のいたらないところに目を向けてばかりいると、気が滅入いりそうです。 A-1:そうかもしれません。だから、問題の解決が容易でないのです。 Q-2:必要なのは勇気ということですか? A-2:自分に立ち向かうわけだから、もちろん勇気は要ります。 Q-3:具体的にいえば、どうすればいいのですか? A-3:そういう意味での王道は夢を調べることといわれています。でも、それは一人で行うのは困難だし危険もあります。 「自分に訊いてみる習慣をつけること」とでもいっておきましょうか。’17.1... ...続きを見る

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2017/09/29 19:26
クェスチョンタイム  1
Q-1:こころの病気は治りますか? A-1:こころの病気は治る、治らないという問題では、そもそもありません。 Q-2:というと? A-2:こころの病気といわれているものは、内科などでいう病気とは意味が違います。 Q-3:薬が処方されますけど、薬は身体に利くわけですよね。 A-3:こころに生じた異変が身体にもおよぶので、そのかぎりで薬は有効です。 Q-4:それで、すべてが解決することにはならない? A-4:こころの問題は、繰り返しになりますけれど、「治す」、「治る」ということではなく... ...続きを見る

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2017/09/29 19:24
翳り 6-1
人は誰もが「影」に墜ちる。 ふと寂しくなるとき、悲しくなるとき、気分が滅入るとき、恐怖で気を失うとき、眠るとき、頭に打撃を受けたとき・・・。 影は自我の脅威であることも、自我の救済者である場合もある。 自我は無意識に呑み込まれると、さまざまな意味で死界に入る。 眠りがそうである。 解離性障害と呼ばれている病的現象がそうである。 さまざまな身体病で昏睡状態に入るのもそうである。 睡眠は自然のプロセスとして自我が無意識に呑み込まれる現象である。 自我が無意識に呑み込まれるかぎりで睡眠... ...続きを見る

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2017/09/28 18:44
 翳り  5
人に愛されたい願いを持たない者はないだろう。 とりわけ幼いこころはそうである。 その願いが叶えられない度合いが強ければ、人はこころを病むことにもなる。 幼くして親に捨てられた子が、人に興味を持たず、無感動のヨロイを身にまとうことにもなる。 それは愛を願うひそかな願いが叶えられる見込みを持てないからである。過激なほどに傷つきやすくなっているこころを護るためである。 それらの子たちは、内心に激しい怒りを持つ。 滅多なことでは人を近づけないほどに怒りを抱え持っている。 その怒りの由来は死... ...続きを見る

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2017/09/26 21:17
翳り 4
人気者や権力を持つ者に取り入ろうとするのは人のサガである。 我われ人間は人との依存関係を生きる寄る辺としているからである。 そして、一方、このことの問題は必ず人との争いにつながることである。 きょうだいのあいだでも、母親の愛情をめぐって争いが起こる。必ず起こる。 表だっては闘争などはないように見えても、そのつけは無意識に預けられる。 その覚えのない無意識への預け物は、自我に圧力をかけて受け取りを促すことになる。 だが、自我はそんな覚えがないかのように頬かむりを決めようとする。 無意... ...続きを見る

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2017/09/19 21:03
       翳り 2
こころの翳りは人を魅了する力を持つ。 内面を生きる能力には魂性があるからである。 翳りのない明るさは、人間がうすっぺらく見えるかもしれない。 こころの内面を生きる能力が低いぶん、外面を飾ることになるからである。 人との関係も大事だが、それ以上に自分自身であることが重要である。 自分自身であるというのは、自我が無意識との関係を培うことである。 無意識の反映を受けている自我は、魂性が表にあらわれるのである。 無意識に宿る魂は、いうならば生きる意味に通じるのである。 ’17.10.3. ... ...続きを見る

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2017/09/14 18:52
  精神医療の問題 U
自然科学は無意識の世界を切り離して成り立っていると前回述べた。一見すると科学はこころの外的世界に関わるものであるように見えるので、こころの内界である無意識世界がなぜ問題になるのかという疑問を持つかもしれない。 以下はその問題の説明である。 結論を先にいえば、「私という自己の存在」はイメージとして存在しているということである。 「あなた」と「わたし」が友人としておしゃべりをしているときに、「あなた」から見れば「わたし」は厳然として「あなた」の前に存在している。その厳然としてという意味は、目で... ...続きを見る

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2017/07/27 19:15
     過食の問題 4
いかなる場合Hでも、我われ人間は「生きるか死ぬか」という無意識下での綱引きをしています。 心的エネルギーが、生の方向と死の方向と、たがいに対抗する二筋の流れ方をしていると考えられるのです。こころの問題には必ず心的エネルギーが関与しているということでもあります。 我々が生まれ、かつ死ぬという人為を越えた宿命の下にあるかぎりは、それを裏づける生理的な根拠があるということです。 それは生きることも死ぬことも自然の摂理の下にあるということにも通じます。拒食症の方々が自然の摂理の下にあるのはいうまで... ...続きを見る

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2017/07/20 21:30
過食の問題 3
拒食症の患者さんが診療に訪れるのは、自分からすすんでではなく、母親をはじめとした家族に何度も促されてのことなのでしょう。だから、診療に訪れたといっても、それは説得によって「ようやく治る気になった」ということではないと思われます。いわば社会的存在であるかぎりは仕方がない、という妥協をしてみせていることであるふしがあります。母親を悲しませるのは本意ではないという気持ちがうかがえるように思われます。 生きることへの関心がうすく、死への待望がつよいといったことであれば、「治療」に積極的になる理由を欠い... ...続きを見る

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

2017/07/20 21:27

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