大河内メンタルクリニック院長ブログ 折り折りのこと

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zoom RSS     院内講義(抜粋)5

<<   作成日時 : 2016/09/09 19:58   >>

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影―3
「影とは、自我がこころの表層に取り上げる(社会的人格としての自己の形成)のを拒むことによって、意識下に抑圧・排除された経験群である」と概念づけておきます。ちなみに、これは認知療法がいう「スキーマ」概念と重なり合うものです。そして、ついでながら、これまでの私のここでのお話は、「この世の向こう」に及ぶきらいがあり、皆さんを大いに悩ませてきただろうとお察しします。それにも拘わらず、少なからぬ方々に、こうして参集していただいていることでことを済ませてはいけないという反省から、認知療法でいわれている問題に触れることで、「この世への軸足」を確かめていきたいと考えております。
それは、それとして、抑圧・排除されてきた影たちは、自我が自動的に行うことなので、ほとんど無意識のうちに進行します。そして、「不本意ながら影とされた経験群」は、生き物のように意識の表層に登ろうとして(自我に存在を認知してもらおうとするかのように)自我に圧力を加えることになります。それは心的エネルギーの作用と反作用という自然の理の顕れでもあり、こころに心的エネルギーが働いている証拠ともいえる現象です。
それらは、従って、「影のものとされたこと」による怒りを、必然的に伴っています。そして、そういうことは、生活しているかぎり、誰の場合でも避けようもなく、延々と繰り返されるこころの現象ですけれども、個々人の程度の差が大きな問題に発展する可能性をはらんでいます。また、人生の早期であればあるほど「影」とされたものに蓄えられるエネルギーは高くなるのです。それは、母親の庇護を絶対的に必要とする時代では、母親が生殺与奪の権限を握っているといっても過言ではない、という問題に帰着します。認知療法から‘発展した’スキーマ療法の著者は、このあたりのことを次のように述べております。
有害な幼少期の体験は、早期不適応的スキーマの第一の起源である。最も早期に形成され、最も強力なスキーマは、親と子供だけの核家族を源とする。子供が属する家族の力動は、その子供の世界そのものである。・・・
ちなみに、スキーマというのは、「影」のものの中で、とりわけ不当な扱いを受けている思いが強いといった怒りに彩られた経験群の集合体と考えてよいかと思います。それらは「影のもの」として一大勢力になっていて、意識の地下から自我に反旗を翻すようにして圧力をかけてくるのです。それは、場合によっては自我を破壊しかねないほどの勢力になるので、自我の立場からすると扱いが困難です。もともとが「自己組織」を構成する上での自我の営為なので、よくよくキャパシティが大きな自我でなければ「認めがたい」ものでもあるのです。しかしながら、自我が意識の地下から反攻を受けている事実は紛れもなく、それを無視する自我は相応のダメージを受けないわけにはいきません。そこは潔く、影の存在に目を向ける形をつくっていく算段をしなければ、一生が暗く、不安に満ちたものにならないわけにはいかないのです。そして、治療者の助けを借りてでも、「影」の存在に注意を向けて、その存在を受容する勇気を持てれば、影がかかえている負性の大きなエネルギーを回収することができる理屈です。あるいは、直接的に影と立ち向かわなくても、何かの才能に恵まれていれば、自我はいうならば無意識に埋蔵されている得難いものに接触できるかもしれません。
この問題は手前味噌になりますけれど、我々精神科医は、患者さんとの関係での必要に迫られて、我々自身の意識の深部に下降する作業をすることなります。私が、いま、皆さんにお話ししていることも、その一つといえるかもしれません。それは、患者さんとの関係で起こる行為ですが、結論的には「自己会得」に向けた漸進的作業です。そのようにして、私自身にもともとはあった「影」に接触する機会も増えて、影に恐れをいだくというよりは、影に興味を向ける、といったふうにもなっていきます。私の経験でいえば、影についても慣れていけば、むしろ、それを探そうとしている無意識のこころ、つまり自我の動きが見えてきます。気がつくと、影を恐れるよりは影に興味を持っているのです。一言で影といっても、勢力の大小はあるので、しだいに大きな力を持っている影にも近づく興味と力が身についていくようになっていくのを感じております。そして、その影の最大の黒幕が死であると、私は感じております。影は取り込まれれば恐ろしいだけのものですけれども、そこに少しずつ近づいていく機会があれば、影は、むしろ興味深いものであると感じております。そういう意味ででも、最終的には影の黒幕であるに違いない死がテーマになるのではないでしょうか。死の問題といっても、死そのものがどういうものかというのではなく、あくまでも「私」にとって死とは何か、それは生とどういう関係、意味があるのかという、あくまでも視点を「自分」に置いた「人間的な意味」、あるいは「現象としての死の問題」が課題なのです。現象としての死というのは、「私」という存在を問うことと一連の問題です。「私」を別にして死を問う、というのは単なる「お話」になるしかありません。ということであれば、それは原理的に「問えない」という代物ではないはずです。 ('16/9/9)


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