大河内メンタルクリニック院長ブログ 折り折りのこと

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<<   作成日時 : 2017/07/27 19:15  

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自然科学は無意識の世界を切り離して成り立っていると前回述べた。一見すると科学はこころの外的世界に関わるものであるように見えるので、こころの内界である無意識世界がなぜ問題になるのかという疑問を持つかもしれない。
以下はその問題の説明である。
結論を先にいえば、「私という自己の存在」はイメージとして存在しているということである。
「あなた」と「わたし」が友人としておしゃべりをしているときに、「あなた」から見れば「わたし」は厳然として「あなた」の前に存在している。その厳然としてという意味は、目で見ている、話しているのを耳で聞いている、といったことがあってのことであるだろう。つまり、「あなた」にとって「私」が厳然として存在しているという意味は知覚的に実在しているということであるだろう。
それとの対比でいえば、私はイメージとして存在しているなどといえば、どこか幻のような掴みどころがないモノとして感じられるだろうと思う。
しかし、そうなると「あなた」が見ていないときの「私」はどういう存在になるのだろうか? おそらく、「あなた」は「私が見ていないときであっても、キミは存在しているに違いない」というしかないことだろう。
しかし、そういう「推定」がなぜ成り立つのか? 私が「不動の存在」であると「あなた」は確信しているからだろうか?
そんなことは無意味な仮定であるのはいうまでもない。「不動の存在」であると確信する根拠がないからである。
見ているかぎりは存在しているという「知覚的実在」は、「確固として存在している」ということの根拠にはなり得ないからである。
そういうことからも、「私」が「確固として存在している」ことの根拠がない。知覚的に実在しているのは確かであるとしても、知覚が効かない場合はどうなるのかということに答えることができないものでもある。
「私」の存在に関してはかくのごとく混迷しでいる。一方、科学の世界ではこうした混迷はなく、逆に平明である。
両者の違いは何か?
それは無意識の関与の有無である。
「私」の存在については無意識が関与しているが、科学の世界では無意識が排除されているということである。
前者は自然そのものであり、後者は人工の産物であるということである。
後者は自我の関与が隅々まで行きわたるのが理想である「明るい世界」であり、前者は自我にとっての超越的世界である無意識が自我と協働し、あるいは自我を監視し、あるいは自我を回収する(意識の途絶。さまざまな意味での死)といった「暗い世界」である。
そして、前者、自我と無意識の協働の世界が、つまりイメージの世界である。イメージとは、夢がそうであるように、想像力や創造力がそうであるように、あるいは幻聴や妄想がそうであるように、無意識が自我に向かって協力的に、あるいは自我を呑み込もうとするように主導的役割を取って起こる性格のものである。'17.7.27


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