大河内メンタルクリニック院長ブログ 折り折りのこと

アクセスカウンタ

zoom RSS    院内講義ー抜粋11

<<   作成日時 : 2017/03/20 21:44   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

今回のシリーズが今日で一区切りになります。それでトピックとして「あきらめない」という問題を取り上げてみます。
「あきらめない」というのは日常語です。スポーツや受験勉強などで「あきらめるな」といったふうにいわれることがあるのはご存知の通りです。それは力をもっと振り絞れといった意味とか、何かを戦い取るときの激励であるとか、いずれにしても、ここ一番といったときにいわれる言葉です。
いま、ここで取り上げる意味は、しかしながら、そういうことではありません。うつうつとして気が休まらない日々がつづいて、とうとうこころの緊張の糸が切れたといった状況を踏まえてのことです。このことは、うつ病その他のこころのトラブルのときには、必ず見られることですがとりわけ病態が遷延してなかなか進展が見られないという例を、ここでは想定しております。そういう例は少なからずあります。
うつ病その他のこころの困難に見舞われると、それは、「生きる意志」の曖昧化といったことが起こります。それは意識的に行われることではないので、自分でも気づかないうちに進行するのです。
生きる意志というのは、エネルギーの観点からすると、生命的エネルギーと一体のものです。生きる意志が明確であるというこころの状況では、生命的エネルギーがしっかりしているという意味になります。
そして、生きる意志と死への欲求とは互いにエネルギー的には逆行するのです。つまり、生きる意志が生命的なエネルギーと一体のものであることとの対比として、死への欲求は反生命的エネルギーと共にあります。
この相反する二筋のエネルギーの流れは、心的エネルギーの順行と逆行といわれているものにも見られます。
心的エネルギーの順行というのは、無意識から自我へのエネルギーの流れです。そして逆行というのは自我から無意識へのエネルギーの流れです。こころのエネルギーが逆行すると自我が無意識に墜ちるのです。そして、それは死を意味します。我々は日常的に眠りにつくことで、いわば夜毎に死ぬのです。仮に眠っているあいだに心臓や脳が何らかの発作に見舞われると、自我は無意識に墜ちたままになるかもしれません。それは文字通りの死を意味します。
そして、エネルギーが順行することによって、朝の目覚めが訪れます。つまり、眠りから覚めるのです。朝のここちよい目覚めは、日ごとに生が蘇ることを意味します。
つまり、無意識界はこころの主軸である自我を回収するものであると同時に、自我を蘇生させる大地でもあります。自我が無意識によって回収されれば、それは死を意味する一方で、自我が無意識との関係を保っているかぎりは、尽きないエネルギーの供給源です。
これは、我われ人間にとって死が意味するものを暗示しているようでもあります。我々にとって、死が単なる生の無化であることぐらい身も蓋もない話はありません。生きている理由の根本が否定されることに他なりません。しかし、そんなわけがないだろうということは、誰もが死という生の結末を知っていながら生きながらえることを望んでいるところに、その根拠が垣間見えます。それは死が単なる絶望、生の全否定ではあり得ないことを意味しているに違いありません。
では、人間にとって、「死の意味」はどこにあるのでしょう?
私は、結論的にいえば、死は希望であるというところに、その意味をみることができると断定的に考えます。
というのは希望がなければ生きている理由があり得ないからです。そして、希望が成立するためには無限性の保証が要ります。無限性の保証は、希望が成立する絶対的な要件です。どこを見渡しても人間が有限の存在であるとすれば、希望は成立しません。成立する根拠がありません。
そして、人間は死によって生が回収されます。そのように見えます。しかし、死によって無に帰するのは身体です。身体が死と共に滅ぶのは自明のように見えます。これも、子細に見れば、そうとはいえないようでもあるのですが、ここでは不問にしておきます。
そうしてみると、死が生を否定しているのは人間存在における身体であって、精神は個としての人間の死と共に無限性の世界に一体化していくとイメージされます。少なくても精神が滅し去るという根拠はありません。身体と精神の総合が人間存在であるというのが現実的要請です。そのことは「理屈を超越している」のです。我々は理屈抜きに、それを受け入れるしかないことです。
そのように、死によって人間は無限性そのものに一体化する、というのが希望が成立する意味であるということです。
死が生を否定しているのは、一面においての真実です。そういう意味で人間が有限の存在であるのは顕かです。
そして、人間が希望を持ちつづけることを、自己の存在の存立要件としているという自明のことから、死が生の終わりとしての絶望という意味だけではなく、無限性のものでもあることが顕になるということです。
これらのことは大きな矛盾です。解き得ない謎のように見えます。
しかし、その解き得ない矛盾であること、そのことから、死にしか無限性を保証できるものは何もない、ということが顕かにされているといえるのです。
このように、人間は死を向かえることによって、無限性のモノになる、あるいは無限性の世界へと溶融していく、といったイメージは、イメージであるが故に自ずから立ち上がってくるものです。それは「理屈」ではありません。理屈が通用するのは自我が主宰するかぎりでの話です。無限性のモノについては理屈は通用しません。単にイメージを持つことができるのみです。直観が捉えることができるのみです。('17/3/20)


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
   院内講義ー抜粋11 大河内メンタルクリニック院長ブログ 折り折りのこと/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる