大河内メンタルクリニック院長ブログ 折り折りのこと

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zoom RSS     院内講義(抜粋) 4

<<   作成日時 : 2016/09/02 21:40   >>

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前回、取り上げた「引き受ける精神」が重要な意味を持っているので、更にこの問題をつづけます。
自我は本来的に「引き受ける精神」です。その意味は、自我とは自己自身を引き受けるのを本来的な使命としているように見える、ということです。自我は人間の象徴、自己を司る一つの中心であるといわれます。また、この問題の先駆者であるユングによれば、「自己は総体的な人格で、自我は自己の下位概念である」ということになります。更に、ユングは「自己は自我に対して、客観的所与である」といいます。それにつづいて「自我が持っている意識領域の範囲の内部での意志の自由が、外界の諸必然とぶつかるように、内面世界においても意識領域の彼岸で、意志の自由はその限界を見出す」といっております。
外界の諸必然とは、自我が持っている自由意志が、外界にある無数の対象物の中から(もろもろの対象物とぶつかり合いながら)あるものを選び取って、自己の世界の関係系の構築を企てていくこと、そしてそれに伴ってその対象物との関係ができることにより、それが自己の世界の新たな要素となる一方で、そのかぎりでの自我の意志の自由がそこで使命を全うして消去される、といった意味なのでしょう。
こころの内界についても同様に、自我の意志の自由はその内面世界の「客観的所与」によって、その限界を見出すとユングはいいます。このことからも自我の意志の自由は、自由であるかぎり可能性をはらんでいるということと、その自由が内的な「自己という客観的所与」に達することで限界に達するということの意味は、自我の自由な意志が目指す理念が「自己という客観的所与」であるということになるのです。
それは理念であるので、現実には到達し得ないということでもあります。つまり、自我は永遠に自己を目指す、ということです。永遠にということは、人が生きているかぎり自己に到達することは不可能という意味でもあります。つまり「私」に内属する自我は、永遠に自己を求めつづけることは可能であるものの、そこに到達して自己自身そのものになるのは「見果てぬ夢」であるということです。
可能性は、目的とするものに到達してしまえば、そこで消滅するのです。だから、希望という人間になくてはならないものが成立するためには、希望の基礎をなす可能性というものが、到達不能性の性格を持ったものであることが前提になります。「自己」というものは、そういう性格を持ったものです。
更にいえば、現実世界の可能性が絶えることがない条件は、「自己という内的所与」が「この世の彼岸」にあるという意味をも含んでいるのです。
そのように考えなければ、限りある世界である「現実世界」に希望がある理由を見出せません。
そのことから、自我が本来的に「引き受ける精神である」というのは、自己自身であろうとすることを引き受ける、という意味であるのと同時に、「自己はこの世の彼岸」にあるという、まさにそのことの中に、そもそもが「その彼岸」から人間が生まれてきたことが含まれているというべきです。そしてそれに伴って、この世の彼岸から生まれ来った人間に、人間である象徴であると同時に実働機関である自我が付与されていること、その自我が「自己自身であろうとすることを引き受ける精神である」ということ、という意味が内包されているということができるように思われます。
自己というユングがいうところの「客観的所与」とは、「私に内属する自我」が永遠にあこがれ続けるものであり、従って、それは自我があらかじめ使命として与えられている内的な課題なのです。それが、ユングがいう「所与」という意味になるのではないでしょうか。
「所与」というのは「私」なる自己の存在と切り離しては措定できないものですし、従って、自我という自己自身であろうとする現実的な実働者に、予め付与されているものでなければならないものなので(そうでなければ理屈が立たない)、従って、自我とは本来的に「引き受ける精神」であるということです。’16/9/13



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